昭和51年10月24日 特別奉修委員



 今朝の御祈念前に、延岡の田中さんから電話が掛かってきましてね。今朝御祈念をされておられたら、それこそ大きな音と共に、あのう御神殿に大きな光が落ちて来た。それでびっくりして、それがそのう御祈念しながら御心眼とも本当な事とも、夢とも分らなかったという訳です。素晴らしいご比礼が立つことでしょうね。光が御神殿にしかも大きな音と共に落ちてきた。
 今朝から、まぁこれは有り難い意味で、まぁびっくりするような事だということ。それからさっき網さん達が夫婦で着かれて、支部結成のお礼のお届けと同時に、今朝からしゃっちお参りをしてお伺いをしなければならない、これもまたびっくりする様な事が起きて来た。どうしたならよいかと言った様な事。それをお願いさせてもらいよったら、宮崎を旅行した方達は知っとりましょうけれど、あのう宮崎にあのうサボテンの山がありますね、サボテンが沢山。あのサボテンがねちょうどあの杓文字の形で頂くんです。
 これはすこしジガジガはあろうけれども、救い取るということでしょうね。サボテン。そしてどうしてそう言う様なことを頂くかと言うと、さっき話しましたあのう小さいあのう、黄いない花のそれを頂くんです。と言う事はあのうあれは、先ほど私が皆さんに聞いて頂いたのは、あのう行き届いておるということで、御理解頂いたでしょう。だからあのうこう言う様な問題が、こうそれこそびっくりしなければ、おれないような事でもおかげが頂けれる。
 少しはじがじががあろうけれども、救い取るのを日頃のいうならば、行き届いた信心によっておかげをやるぞと、言葉を持ってするならそういうことなって来る。黄ないあの花の事をね。ホテルのボ-イさんが行き届いておるという話をしましたね。そういうことです。そすとサボテンのこれは救い取るということ。まぁ今朝から御理解頂く、合楽の御理解はいつも生きとるということは、あのう確かにそうなんですよ。そういう働きというものがあっておる。
 稲垣さんがさっきここでお届けされますのに、昨日一日はもうそれこそ、神様の一分一厘間違いのない、置いたものを取るようなお働きの中に、感動のしずくめで、昨夜のお月次祭を拝ませて頂きましたら、信心は感動がなかったら駄目だという御理解を頂いて、もういよいよ以て感動が、まぁ今朝まで言わば続いておるという訳である。今日は井上さんがお届けをされるのに、今郵便局に行かれてから、何か書き物をしなければならないのに、そのこう言う風に書きなさいと言うて、手本があるでしょう。
 それに何と久留米市大橋町合楽ち書いちゃった。そして天地真理という歌手か女優かおりましょう。えぇっあまちですかね。だから天地ち書いちゃるじゃろ。そしてまりは真理と書いてある。私もそれを聞いてから胸がずうぅんとしましたですね。もう本当に例えば井上さんの心の中に、もう本当に大変な重味をもった神の働きとして頂かれたことだろうと思う。いかに稲垣さん井上さんが間違いのない、何時も一分一厘間違いのない働きを身に感じていきよんなさるかということが分かりますよね。
 久留米市大橋町合楽、天地真理て。それでほかに三つ位あるそうです。それはならほかのどこどこの何々と言うて、他の俳優かなんかの名前だそうです。ただ合楽のだけがその天地真理と書いてあったと。それはただそれだけの事だけれどもね、もうどうにも出来ない、神様の働きをもう本当に頂いておる事を感じずには居られない。そういう中にお互い日々信心の稽古をさせて頂いておるのである。そういうなら感動的な場面というものが、日に何回も何回もあらなければならない。と言うおかげをね。
 今日の御理解を頂いて、改めて熊谷さんがお届けされますのに、他に怖いものはないばってん、熊谷さんはかべちょろが怖いそうです。だからちょうど私共が宮崎に行く前だったでしょうか、そのかべちょろが出てもうビックリ、あまり怖いからね、どうぞかべちょろが出らんごとお願いしますというお願いであった。ところが先生不思議な事に、今日の御理解ば頂きよってから、思われた事はそれからやっぱ、出らんごとお願いしとったけれども、やっぱ何べんも出てくるそうです。
 ところが不思議に全然怖くないおかげを頂いておったと言う事。出らん事と言うよりかこの方がおかげですね。怖くもないものを怖いと思うのです。それも今日のあの蛙の話が出て来たところで、あの熊谷さんがそう感じたとこういうお届けです。もう例えば私共の行く手にはね、怖い事とか困った事と言う事は、金光様の信心しておれば、ある筈は絶対ないです。それを思うのは自分の信の足りなさ。ですからそれは私に度胸を作って下さろうとする働き。おかげの受け物を下さろうとする働き以外に何にもないのです。
 ですからそういう頂き方で行きさえすればおかげなんですね。今度の御大祭を頂いて、あのう遠方から参ってきたり、初めて参ったと言う方達がお参りをしてきて、お届けをされるのに、昨日の手紙にも二つながらそうでしたが、寛の字で頂けばもう問題はないという頂き方。今日は桜井先生の奥さんがお届けしておられましたが、もう今度帰りがけにそのうお母さんでしたかね、がもうほんと長い間信心しよったばってん、こげな御理解は頂いた事はなかったち。もうそりゃもう本当に困った事がありゃ困った事と思い。
 ビックリするような事がありゃビックリする事で、ただお願いをするというだけじゃった。けれどもねこの御理解を頂くならもう、言うなら満月の心で日々が生活出来ると言うて、それを言い続けながら帰られたということでした。昨日飯塚の瓜生さんが今参って来ておられますが、瓜生さんもお母さんと一緒にお参りしておられました。やっぱり頂いておられたのは、その事を頂いて帰っておられたという、今お届けがありましたがね。もう沢山頂く事は要らんね。もう本当に心が救われ助かる。
 本当に一言を頂いて帰ればいいのですけれども、ならあの御大祭というあの感動があって、その後に頂く御理解であったから、その様なおかげになって来たんだと思いますよ。やはり感動です。感動なしには信心はもう言うなら枯れた信心です。だからならどうしたなら感動が受けられるかと言う事が、昨日頂きます様に松と竹であり、本当に感動が湧いてこないなら、感動が湧いてくる修行を一つ思い立たなければいけないと言う事です。感動なしにべんべんとした信心が、何十年続いたって大した事はないと言う事ですね。
   どうぞ。